目が覚めると、知らない布団に挟まれていた。エアコンなしでも少し汗ばむほどあたたかい。
あーそっか今夜は車の中じゃなかったんだ。そうだそうだ、ありがたー、と安心して何度も二度寝をする。
今日はおばちゃんが鹿児島観光に付き合ってくれる。桜島、知覧特攻平和会館、時間があれば指宿で砂むし風呂と、かなり欲張りだが行けるところまで。いよいよ起きる時間になり、テレビの部屋へ。駅伝の中継。こたつにお茶と干し柿。干し柿が史上最高においしかった。鹿児島のスーパーでは干し柿を店頭の目立つところで見かけた。お正月の食べ物なんだろう。
おばちゃんが昨日観光プランを3つも提案してくれてた。どれも捨てがたかった。10時ごろ出発し、夜はわからなかった、茶どころ志布志の茶畑の中を走り抜ける。
時々電話をくれて、スピーカーから見所を教えてくれる。一人だと気づけない視点を瞬時にインストールしてくれる。高知在住の友人すずちゃんの故郷や、今施術でお世話になっているのびるさんが通った体育大学がある鹿屋市も通過してくれた。「こっちの方が桜島に向かう時、海側の道が眺めも良いんだよね」と言って。
桜島がどんどん近づく。表情が見えてくる。なかなかワイルドでかっこいい。遠くからやと、のほほんとしてたのに。
垂水の道の駅でおいしい海鮮丼をいただく。
窓から外を見ると、目の前で老夫婦が仲良さそうに買ったものを広げて食べていて、隣の席の女子も私たちも「なんかいいね」って話した。
桜島のビュースポットではなんども車を停め、写真を撮らせてくれた。昨日まではふもとに街があってフェリー乗り場もあるなんて知らなかったけど、今は東に煙をあげる、鹿児島愛されシンボルを親しみの眼差しで眺め、フェリーに車を載せて海を渡ろうとしている。「私たちは今日は灰を心配しなくていいのよ、お天気もいいし、ラッキーだね〜」って。
フェリーで10分程度。桜島から鹿児島市、これまでいた大隅半島から薩摩半島へ。県が「つ」だか「し」の形をしていて、カーブのところ、中心はは昨日いた霧島市。真ん中に錦江湾と桜島。それぞれの半島からお互いが見えるなんて、すっごい不思議。でも鹿児島県民はあたりまえ。これだけで、九州に来た値打ちがある。
車を乗り合わせて、知覧特攻平和会館へと向かう。ものの40分で着いた知覧は、武家屋敷や茶畑がある閑静な丘の町だった。ずっと来てみたかったけど、「遠い」ってだけで「いつか」の場所になっていた。「いつか」を具体的にすれば、それは計画となり、現実、体験となる。
灯籠が等間隔で並ぶ参道のような道を、ちょっとドキドキしながら抜けると、特攻平和会館があった。年中無休。元日だけど、九州外からの車もたくさんあった。心の準備もする間もなく、入る。
第二次世界大戦で、愚かな「必死」の特攻作戦により亡くなった若者の写真と遺品、映像作品をたくさん見ることができた。特に印象的だったのは、お母さんに向けた遺書。まだ10代の、子どものような特攻兵が書いた「さようなら」は、私たちが普段何気なく使うそれと全く異なる、永遠の別れを意味したものだった。それが、何百もある。胸が苦しい。おばちゃんは、映像を見てぼろぼろ泣いていた。「息子さんのこと考えた?」「そうだね、母親としてはきつかったね」そんな会話をしたと思う。いろんな事象に対して、さまざまな立場から様々な意見があるのは当たり前だけど、戦争だけは絶対にやってはいけない。ガザで起きていることにも、もっと私らは目を向けないとと思う。
夕食を一緒に食べ、解散。おばちゃんは、ご飯を食べるお店もずっと携帯で探してくれてめちゃくちゃその気持ちがありがたかった。いきなりよくわからない年下の女が遊びに来て、一緒に観光することになったが年長者として気もつかっただろう。帰宅してからもらったメッセージには「退屈な筈だったお正月が思い出深い、とても、有意義な日になりました ありがとうございました」と書かれてあり、涙。
お風呂は、やじがゆ温泉へ。浴槽ひとつに洗い場ひとつ、脱衣所と浴場の間に壁がない、湯温も客が調整する・・・のスーパーシンプルさ。「お湯熱くしましょうか?」「洗い場使われましたか?」人々のコミュニケーションがあって、江戸時代とかみんなこうやって銭湯来てたんかな、こんな感じもいいなーと思った。
寝床は、指宿の道の駅。翌日の雨を思い「登山はあさってかな…」と気絶するように眠った。